男装坊は弥勒出世大願の為に国々里々津々浦々遣る隈なく修行しつつ十三才の頃より七十六歳に至るまで前後を通じて殆んど六十四年間休みなく歩き続けたがこの間熊野三社に額きし事三十二回に及んだ。

 そして恰度三十三回目の熊野詣での時三七日社前に通夜した満願の夜思はずとろとろと社前に微睡した。と思ふと夢とも現つとも判らず神素盞嗚神威容厳然たる三柱の神を従へ現はれ給ひ神々しいその中の一柱神が「如何に男装坊、汝母に孝信として弥勒の出世を願ふ事不便なり。汝は此の草鞋を穿き此の杖の向くままに山々峰々を凡て巡るべし。此の草鞋の断れたる所を汝の住家と思ひそこにて弥勒三会の神人が出世を待つべし」と言ひ残し神姿は忽ち掻き消す如くに隠れ給ふた。

 男装坊は夢より醒めて自分の枕頭を見れば鉄で造れる草鞋と荊の杖が一本置かれてあつた。男装坊は蘇生歓喜の涙にむせび乍ら、「アア有難し有難し我が大願も成就せり」と百度千度社前に額きて感謝を為し、「さらば熊野大神の神命に従ひ国々の山々峰々を跋渉せん」と熊野三社を始め日本全国の高山秀嶽殆んど足跡を印せざる所無きまでに到つたのである。 

 

男装坊前後六十四年間  休まず日本全土を巡りぬ。 

熊野社に三十三回参詣し  鉄の草鞋と杖を貰へり。 

男装坊弥勒出世の大願の  成就したりと嬉し涙す。 

瑞御霊三柱神と現はれて  男装坊の先途を示さる。 

 

 それより男装坊は日本全洲の霊山霊地と名のつく箇所は残らず巡錫し名山巨刹に足を止めて道法礼節を説き、各地の雲児水弟の草庵を訪ひて法を教へ且つ研究し、時々は病に悩めるを救ひ不善者に改過遷善の道を授けて功徳を積み累ね乍ら北方の天を望んで行脚の旅を十幾年間続けたる為、鬚髯に霜を交ゆる年配となり、幾十年振りにて故郷の永福寺に帰つてみれば、悲しきかも恩師も両親も既に已に他界せし後にて、只徒らに墓石に秋風が咽んでゐるのみであつた。 

 男装坊は今更の如くに諸行無常を感じ己が不孝を鳴謝し、懇に菩提を弔ひ又もや熊野大神の御誓言もあるところより何時迄も故郷に脚を停むる訳にもゆかなかつた。 

 

日の本のあらゆる霊山霊場に  巡錫なして道を説きつつ。 雲水の徒等に法の道  伝へ伝へて諸国に行脚す。 

いたづきに悩める数多の人々を 救ひつ巡りし男装坊かな。 数十年行脚終りてふる里に 帰れば恩師も父母も坐まさず。 師の坊やたらちねの墓にしくしくと 詣て見れば咽ぶ秋風。 世の中の諸行無常を今更に 感じて師父の菩提弔ふ。 

三熊野の神の誓ひを果さむと  男装坊は故郷を立つ。 

 

 陸奥の国人たちより大蛇が棲めりと怖れられ人の子一人近寄りしことの無き赤倉山、言分山、八甲田山などへ登つて悪魔を言向和さむと、又もやその年の晩秋風吹き荒ぶ山野を行脚の旅に立ち出づることとした。 

 降りに降りしく紅葉の雨を菅の小笠に受け、積る山路の落葉を鉄の草鞋に掻き分け悲しげに鳴く鹿の声を遠近の山の尾の上や渓間に聴きつつ西へ西へと道もなき嶮山を岩根木根踏みさくみつつ深山に別け入り、或る夜のこと岩窟内に一夜の露の宿りせんものと岩間を漏れくる燈火を便りに荊棘をはつはつ分けて辿りつき見ればコハそも如何に怪しとも怪し花に啌〔嘘〕つく妙齢の美人が現れて、男装坊の訪ひくることを予期してゐたかの様に満面に笑みを湛えて座に請じ入れた。 

 「あな嬉しや懐しや、御坊はその名を男装坊とは申さざるや。妾は過ぐる年観相術に妙を得たる行者の言によりて、妾が前生にて愛くしみ愛しまれたる背の君たりし人は現代にも再生し男装坊と名のり、諸国行脚の末今年の今宵この山中に来たらるべきを聴き知り、幾歳の前より此の附近の山中に入りて貴坊に再会すべき今日の佳き日を指折り数へひたすらに待ち申す者なり。願はくは妾の願ひを容れて今生にて妹背の契りを結び、我身の背の君と成らせ給へ」と言ふにぞ、男装坊は大に驚き、「我身は三熊野の大神の御霊示に由つて末に主となるべき霊地を探査して難行苦業の旅を続くるもの故、如何に御身の願ひなればとて、一身の安逸を貪る為に大神への誓ひを破る訳にはゆかぬ。自分は実際女身の男装者である」と、懇々説示して心底より諦めさせようと努力はしたが、恋の闇路に迷つた女性は到底素直に聴き入るべき気配もなく、首を左右に振り涙をはらはらと流し乍ら「御坊よ譬へ女身なりとて出家なりとて同じく人間と生れ給ひし上は血潮の体内に流れざる理由なし。

 よしやよし三熊野の大神への誓ひはあるとは言へ左様なる味気なき『枯木倚寒巌三冬無暖気』(3)的な生涯を送られては人間として現世に生れたる楽しみは何れに有りや。

 妾が庵は斯の如き見るもいぶせき岩屋なれど、前生にありし妹背の深き契りを今生に蘇へらせて最も愛しき君と生活を為すならば、たとへ木枯すさぶ晩秋の空も雪降り積もる深山の奥の隠れ家も我家のみは春風駘蕩として吹き来たり、暖気室内に充ち満ちて憂き世の移り変りも他所に我が家のみは永久に春なるべきに。

 この憐むべき女性の至誠が木石ならぬ肉身を持つ御坊の胸には透徹せざるか。愛しの御坊よ、その神への誓ひとやらを放擲して妾の主人となり此の岩屋に永久に留まり給へ」と衣の袖にまつはり付く様は殆んど仏弟子阿難尊者に恋せし旃陀羅女の思ひも斯やとばかり嬌態を造り春怨綿々として泣き口説くのである。 

 男装坊には夢にも知らぬ今の意外の出来事に当惑し、最初の間は手を拱いて黙然たりしが、我が膝に泣き崩れ荒波立たせて悲しみなげく女性のしほらしき艶容を見ては、人性を持ちて生れ出でたる男装坊、たとへ自分は女体とは謂へ黙殺することは出来ない。

 殊に愛の神仁の仏の化身なる男装坊は人を憐む情の人一倍深い身にとつては如何とも之をすることが出来ない。過去数十年間の己が修行を破る悪魔として気強く五臓の奥の間に押込めて置いた愛の戒律の一念が朝日にあたる露の如くに解け初めて、遂には女性の情にほだされ大神への誓ひを破らんとした一利那、忽ち脳裏に電光の如くに閃めき渡つたのは今日迄片時も忘れられなかつた三熊野大神が御霊示の時の光景の荘厳さであつた。

 そこで男装坊は此処にこの儘夜の明くるを待たば森羅万象を焼き盡さねば止まぬ底の女性の熱情にほだされ永年の望み、固くなりし信念も溶かされて遂には大神への誓ひを破り大罪を重ぬることになつて了ふ。女性には気の毒ではあるが一つ心を鬼とし蛇と為して逃げ出すより他に途も方法もなしと固く握り占めてゐる美女の手から法衣の袖を振り離し、泣き叫びつつ跡追つかけ来たる可憐な女性の声を後に一目散に深き闇の山中へ生命からがら逃げ込んで了ひやつと一息をつくのであつた。

 それより又もや幾日幾夜を重ねて上へ上へと登り詰め、ある山の頂に登りて見れば意外にもかかる深山の中にあるべしとも思はれぬ宏大なる湖水が目の前に展開してゐた。男装坊は驚き且つ喜び湖面や四囲の山並の美しい風光に見惚れてゐると、不思議なるかな足に穿ちたる鉄の草鞋の緒がふつつりと切れた。 次に手に持つた錫杖が忽ち三段に折れて見る見る木の葉の如く天に飛び上がり大湖の水面に落ちて了つた。男装坊は思ふやう、扨ては幾十年の間夢寐にも忘れざりし吾が成仏の地、永住の棲家とは此処のことであつたか。かかる風光明媚なる大湖が吾が棲家とは実に有難や辱けなやと天を拝し地を拝し八百万の神々を拝脆し、それよりすぐさま湖畔に降りて之を一周し吾が意に満てる休屋附近の浜辺に地を相し、笈をおろして旅装を解き幾十年未だ嘗て味ははなかつたところの暢々した気分となり安堵の胸を撫でおろすのであつた。

 

大蛇すむ八甲田山その外の  深山高峰探る男装坊かな。 

雨にそぼち寒風に吹かれて男装坊は修行のために又行脚なす。くろかねの草鞋うがちて山川を  跋渉修行の男装坊かな。 深山の岩間の蔭の灯影見て 訪へば不思議や美女一人棲める。男装坊山の美人に恋されて  神慮を恐れ夜暗に逃げ出す。 熱烈な美人の恋を跳ねつけて  又山に逃げたり男装坊師は。高山の尾の上に立ちて十和田湖の  水鏡見て驚きし男装坊。十和田湖の畔に鉄の草鞋はぷつときれ錫杖三段に折れて散りゆく。 

三段に折れし錫杖十和田湖の  水面さして落ち沈みたり。 十和田湖は永久の棲家と男装坊  思ひて心安らかになりぬ。