貞観年中男装坊にて。 

 貞観十三年(2)春四月、京都綾小路関白として名高い、藤原是実公は讒者の毒舌に触れ最愛の妻子を伴ひ、桜花乱れ散る京都の春を後に人づても無き陸奥地方をさして放浪の旅行を続けらるる事となつた。

 一行総勢三十八人は奥州路を踏破し、やがて気仙の岡に辿りついて爰に仮の舎殿を造営し、暫時の疲れを休められた。間もなく是実公他界せられ、その嫡子是行公の代となるや、元来公家の慣習として、何んの営業も無く、貧苦漸く迫り来りたる為、今は供人共も各自に業を求めて各地に離散してしまひ、是行公は止を得ず、奥方のかよわき脚を急がせつつ、仮の舎殿を立出で、北方の空を指して、落ち行き給ひし状は、実にあはれなる次第であつた。

 斯くて日を重ね、月を閲して三ノ戸郡の糖部へ着かれ、何所か適当なる住処を求めんと、彼方此方尋ね歩行かれたが、一望荒寥とした北地の事とて、人家稀薄依るべきものなく、村らしき村も見えず、困苦をなめ乍ら、やがて馬淵川の辺りまでやつて来られたが渡るべき橋さへもなく、又船も無いので、途方に暮れ乍ら夫婦は暫時河面を眺めて茫然たる斗であつた。

 かくてはならじと二人は勇気を起し川添ひに雑草を踏み分け三里斗り上りしと思ほしき頃、目前に二三十軒の人家が見えた。是行公は雀躍して、奥よ喜べ、人家が見へると慰めつつやがて霊験観音の御堂へと着かれた、そして其夜は御堂内に入りて足を休め又明日の旅路をつくづく思ひ悩みつつ、まんじりとも出来なかつたのである。 

 その翌日是行公の室へ這入つて来た別当は威儀を正して「何処となく床しき御方に見え候も、何れより御越しなるや、お構ひなくば大略の御模様お話し下され度し」と言葉もしとやかに述ぶる状は、普通の別当とは見えず、必ずや由緒ある人の裔ならんと思はれた。

 是行公は、「吾等は名もなき落人なるが、昨夜来より手厚き御世話に預り、御礼の言葉も無し。願はくは後々までも忘れぬため、苦しからずば此の霊験観音堂の由来をきかせ玉へ」と言葉を低うして訊ぬるに、彼の別当は襟を正し乍ら、「さればに候、拙者は藤原の式部と申す者にて、抑々吾祖先は藤原佐富治部卿と申す公家の由にて讒者のため都より遥々此処に落ち、柴の庵を結びこの土地を拓きて住めるなり、現在にては百姓も追々相集り斯の如く、一つの村を造りしものにて、此観音堂は村人が我祖先を観音に祀りたるものにして、近郷の産土神にて候、扨て又御身は都よりの落人の由、何故斯様なる土地へとお越し遊ばされしや」と重ね重ねの問ひに是行公は懐しげに、式部の顔を打ち眺め「あ、扨ては貴公は吾一族なりしか、吾祖先も藤原の姓、父上までは関白職なりしも、無実の罪に沈み、斯く流人となりたり。

 只今承はれば貴公も藤原と聞く、系図なきや」と問はれて式部は早速大切に蔵めてあつた家の系図を取り出し、披き見るに是行公は本家にて、式部は末家筋なれば、式部思はず後に飛び去つて言ふには、「扨ても扨ても不思議の御縁かな。是と申すも御先祖の御引合せならむ。此上は此処に御住居あらば、我等は家来同様にして、御世詁申す可し」と是より是行公と式部は兄弟の契を結び、是行公は兄となつて、名を宗善に改め給うたのである。 

 

貞観の昔関白是実公は  讒者の為に都を落ちます。 

綾小路関白として名高かりし  是実公の末路偲ばゆ。 

妻や子や伴人三十八名と  みちのく指して落ち行く関白。 桜花春の名残と乱れ散る  都を後に落ち行くあはれさ。 

みちのくの気仙の岡に辿りつき  仮の舎殿を営み住ませり。是実公間も無く世をば去り玉ひ  嫡子是行公の代となる。 営みを知らぬは公家の常として 貧苦日に日に迫り来にける。伴人も貧苦のために彼方此方と 業を求めて乱れ散りける。 是行公奥方伴ない家を出て  北の方さして進みたまへる。 三ノ戸の郡糖部につきたまひ  一望百里の荒野に迷へり。 馬淵川橋なきままに渡り得ず  草村わけつつ三里余上れり。二三十戸人家の棟の見え初めて  夫婦は蘇生の喜びに泣く。 是行公観音堂が目にとまり  爰に二人は一夜明かせり。 観音堂別当室に入り来り  不思議の邂逅に歓び合へり。 

別当は藤原式部その昔  祖先は関白職なりしなり。 

是行と式部は爰に兄弟の  約を結びて永く住みけり。 

是行公名を宗善と改めて  この山奥に半生を送る。 

 

 爰に藤原是行公の改名宗善は式部の計らいに由つて、三ノ戸郡仁賀村を安住の地と定めて何不自由なく暮してゐたが、只々心に掛るは世継の子の無い事であつた。

 アア子が欲しい欲しいと嘆息の言葉を聞く度に奥方は秘かに思ふやう、もう此の上は神仏に祈願を篭めて一子を授からんものと霊験堂の観音に三七二十一日の参篭を為し、願はくは妾等此の儘にして此土地に朽ち果つるとも、子の成人したる暁は再び都へ帰参して、関白職を得るやうな器量ある男子を授け給へと一心不乱に祈つて居る中、恰度二十一日の満願の夜のこと、日夜の疲労に耐へ兼ね思はず神前にうとうととまどろめば、何処ともなく偉大なる神人の姿現はれて宣たまふやう、汝の願に任せ、一子を授けむ。

 されどもその子は必ず弥勒の出世を願ふ可し、夢々疑ふ勿れ、我は瑞の御霊神素盞嗚尊なりとて御手に持たせ給へる金扇を奥方玉子の君に授けて忽ちその御姿は消へさせられた。

 夢よりさめたる奥方玉子の君は、夫の宗善に夢の次第を審さに告げられしが、間もなく懐胎の身となり月満ちて生れ落ちたは玉のやうな男と思ひの外女の子であつた。

 夫婦は且つ喜び且つ女子なりしを惜しみつつ蝶よ花よと育みつつ七歳となつた。夫婦は男子なれば都に還りて再び藤原家を起し、関白職を継がせんとした望みは俄然外づれたれども、今の間に男装をさせ、飽くまでも男子として祖先の家名を再興させんものと、名を南祖丸と付けたのであるが、誰いふとなく女子が男装して居るのだ、それで男装坊だと称ふるやうになつたのは是非なき仕儀と言はねばならぬ。 

 然るに生者必滅会者定離のたとへにもれず、痛ましや南祖丸が七歳になつた秋、母親の玉子の君は不図した原因で病床に伏したる限り日夜病勢重る斗りで、最早生命は旦夕に迫つて来たので南祖丸を枕辺近く呼びよせて言ふ。 

 「お前は神の申し子で母が一子を授からんと霊験堂へ三七日間参籠せし時、瑞の御霊神素盞嗚神より、生れたる子は弥勒の出生を願ふべしとの夢の御告げありたり。汝は此母の亡き後までも此の事斗りは忘るなよ」と苦しき息の下から物語りして遂に帰らぬ旅に赴いて了つたのである。 

 

仁賀村に宗善夫婦は不自由なく  安住したり式部の好意に。世継ぎの子無きを悲しみ宗善の  妻は観音堂に篭れり。 

立派なる男子を生みて関白家  再興せんと日夜に祈れり。 素盞嗚の神が夢に夜現れて  子を授けんと宣らせ給へり。 瑞御霊授け給ひし貴の子は  弥勒出生を願ふ女子なる。 

月満ちて生れたる子は男装させ 名も南祖丸とつけて育くむ。南祖丸七歳の時母親は  神示を南祖に告げて世を去る。 

弥勒の世来さんとして素の神は 神子をば女と生ませ玉へる。 

 南祖丸はじめ父の宗善、式部夫婦等が涙の裡に野辺の送りをやつと済ませた後、父宗善は熟々南祖丸を見るに年は幼けれども手習ひ学問に精を出し恰も一を聞いて十を悟るの賢さ、是が真正の男子ならば成人の後京都に還り祖先の名を顕はして吾家を関白家に捻ぢ直す器量は十分であらう。

 併し乍ら生来の女子如何に骨格容貌の男子に似たりとて妻を娶り子孫を生む事不可能なり。乳児の頃より男子として養育したれば世人は之を女子と知る者なかる可し。如かず変生男子の願ひを立て此の儘男子として世に処せしめ、神仏に仕へしめん。誠や一子出家すれば九族天に生ずとかや。

 亡き妻の願望に由りて神より与へられたる子なれば家名再興の野心は、流水の如く捨去り、僧となつて吾妻の菩提を弔はしめんと決心の臍を固め、奥方の死より三日後、同郡五戸在七崎の観音別当永福寺の住僧なる徳望高き月志法印に頼みて弟子となし、その名も南僧坊と呼び修行させる事とはなつた。

 

宗善は公家再興の念を捨て  南祖丸をば出家となしたり。 七崎の観音別当月志法印  南祖丸をば弟子とし教へし