東洋の日本国は到る所山紫水明の点に於て西洋の瑞西と共に世界の双壁と推称されて居る。日本は古来東海の蓬莱嶋と称へられた丈あつて、国中到る処に名山があり、幽谷があり、大湖があり、大飛瀑があり、実に世界の公園の名に背かない風光がある。

 中に湖水として最も広大に最も名高きものは近江の琵琶湖、言霊学上、「天の真奈井」があり近江八景といつて支那瀟湘八景(1)にならつた名勝がある。芦の湖、中禅寺湖、猪苗代湖、支笏湖、洞爺湖、阿寒湖、十和田湖などがある、何れも文人墨客に喜ばれて居るものである。

 中にも風景絶佳にして深き神秘と伝説を有するものは十和田湖の右に出づるものは無いであらう。自分は今度東北地方宣伝の旅を続け、其途中青森県下其他近県の宣信徒に案内されて、日本唯一の紫明境なる十和田の勝景に接する事を得ると共に、神界の御経綸の深遠微妙にして人心凡智の窺知し得ざる神秘を覚る事を得たのである。

 扨て十和田湖の位置は、裏日本と表日本とを縦断する馬背の如き中央山脈の間に介在して、北方には八甲田山、磐木山など巍々乎として聳え立ち、南方遙の雲表より鳥海山、岩手山の二高嶺が下瞰してゐるのである。十和田湖の水面の高さは海抜一千二百尺にして、その周囲の山々は之より約二千尺以上の高山を以て環繞せられ、湖面は殆んど円形にして牛角形と馬蹄形とを為せる二大半嶋が湖心に向つて約一里斗り突出し、御倉山御中山など神代の神座や神名に因んだ奇勝絶景を以て形造られて居る。湖中の岩壁や、岩岬や、嶋嶼などの風致は実に日本八景の随一の名に背かない事を諾かれるのである。

 湖中の風景の絶妙なる事は、一々爰に記すまでもなく東北日記に名所名所を詠んでおいたから、爰には之を省略して十和田湖の神秘に移ることに仕ようと思ふ。 

 十和田湖の伝説は各方面に点在して頗る範囲は広いが、自分は凡ての伝説に拘はらないで、神界の秘庫を開いて爰に忌憚なく発表する事とする。扨十和田の地名に就ては十湾田、十曲田などの文字を宛はめて居るが、アイヌ語のトーワタラ(岩間の湖)ハツタラ(淵の義)が神秘的伝説中の主要人物、十和田湖を造つたといふ八郎(別名、八太郎、八郎太郎、八の太郎)が伝説の中心となつて居る。次に開創鎮座せし藤原男装坊も南祖、南宗、南僧、南曽、南蔵等種々あるが、今日普通に用ゐられて居る文字は南祖である。然し王仁は伝説の真相から考察して男装坊を採用し、此神秘を書く事にする。 

 昔秋田県の赤吉と云ふ所に大日別当了観と云ふ有徳の士が住んで居たが、たまたま心中に邪念の萌した時は北沼と云ふ沼に年古くから棲んで居る大蛇の主が了観の姿となつて妻の許へそつと通つた。斯の大蛇の主といふのは神代の昔神素盞嗚尊が伯耆大山即ち日の川上山に於て八岐の大蛇を退治され、大黒主の鬼雲別以下を平定されたその時の八岐の大蛇の霊魂が凝つて再び大蛇となり、北沼に永く潜んでゐたものであつた。

 間もなく了観の妻は妊娠し、やがて玉の如き男子を生み落したが、恰も出産の当日は朝来天地晦冥大暴風雨起り来りて大日堂も破れん斗りなりしといふ。

 了観はその恐ろしさに妻子を連れて鹿角へ逃げその男子を久内と名付けて慈しみ育てた。その後三代目の久内は小豆沢に大日堂を建立したるも身魂蛇性のため天日を仰ぎ見ること能はず、別当になれない所から草木村といふ所の民家に代々久内と名告つて子孫が暮して居た、扨てその九代目に当る久内の子八郎が神秘伝説の主人公である。

 

日本一勝地何処と人問はば 十和田の湖と吾れは答へむ。

神国の八景の一と推されたる 十和田湖岸の絶妙なるかな。

水面は海抜一千二百尺 十和田の湖の風致妙なり。

磐木山八甲田山繞らして 神秘も深き十和田の湖かな。

我国に勝地は数多ありながら十和田の景色にまさるものなし。御倉山御中山など神秘的 半嶋浮ぶ十和田の湖かな。

水青く山又青く湖広く 水底深き十和田の勝かな。

男装坊創開したる十和田湖の 百景何れも神秘的なる。

八郎が大蛇と変じ造りしと 云ふ十和田湖の百の伝説。

素盞嗚の神の言向け和したる 大蛇の霊は十和田に潜みぬ。

風雅なる人の春秋訪ね来て 風光めづる十和田湖美はし。

了観の妻の生みてし男の子こそ 北沼大蛇の胤なりしなり。

天も地も晦瞑風雨荒れ狂ふ 中に生れし久内は蛇の子。

九代目の久内が生みし男の子こそ 十和田を造りし八郎なりけり。

藤原の男装坊が八郎と 争ひ得たる十和田の湖かな。

瑞御魂神の任さしの神業に 仕へ奉りし男装坊かな。

八郎を迫ひ出したる男装坊は 永く十和田の主となりける。
 何時の世にか、青山緑峰に四方を繞まれたる清澄なる一筋の清流を抱いて眠る農村の昔秋田県鹿角郡の東と南の山峡に草木といふ夢のやうな静寂な農村があつた。此村に父祖伝来住んで居る久内夫婦の仲に儲けた男の子を八郎と名づけ、両親は蝶よ花よと慈しみ育くむ間に八郎は早くも十八歳の春を迎ふる事となつた。

 八郎は天性の偉丈夫で、母の腹から出生した時既に已に大人の面貌を具へ一人で立ち歩きなどをしたのである。八郎が十八歳の春には身長六尺に余つて大力無双鬼神を凌ぐ如き雄々しき若者であつたが又一面には至つて孝心深く村人より褒め称へられて居た。

 八郎は持ち前の強力を資本に毎日深山を馳〔駆〕け廻つて樺の皮を剥いたり、鳥獣を捕へては市に売捌き得たる金にて貧しい老親を慰めつつ細き一家の生計を支へて居たのである。

 或る時八郎は隣村なる三治、喜藤といふ若者と三人連れにて遠く樺の皮剥きに出掛けた。三人は来満峠から小国山を越へ遥々と津久子森、赤倉、尾国と三つの大嶽に囲まれてゐる奥入瀬の十和田へやつてきた、往時の十和田は三つの大嶽に狭められた渓谷で昼尚ほ暗き緑樹は千古の色をただへ其の中を玲瓏たる一管の清流が長く南より北へと延びてゐた。

 三人は漸々此処へ辿りついたので流れの辺りに小屋をかけ交り番に炊事を引受けて昼夜樺の皮を剥いて働き続けて居た。

 

草木村久内夫婦のその中に  大蛇の霊魂八郎生れし。 

奥入瀬清流渡り八郎は  渓間の湖沼に友と着きたり。 

孝行の誉れ四隣に聞へたる  八郎は樺の皮脱ぎて生く。 

 

三治、喜藤二人の友と渓流を 渡りて十和田の近くに仮寝す。 

奥入瀬川の辺りに小屋造り  鳥獣を狩り樺の皮剥ぐ。 

  数日後のこと、其日は八郎が炊事番に当り、二人の出掛けたる跡にて水なりと汲みおかんとて岸辺に徐々下り行くに、清き流れの中に、岩魚が三尾心地よげに遊泳して居るのを見た。八郎は物珍らしげに岩魚を捕つて番小屋に皈〔帰〕つて来た、そして三人が一尾づつ食はんと焼いて友二人の帰りを待つて居たが、その匂ひの溢れる斗りに芳しいのでとても堪らず一寸つまんで少々斗り口に入れた時の美味さ、八郎は遂に自分の分として一尾だけ食つて了つた。


清流に遊ぶ岩魚を三尾捕り  焼き付け見れば芳味溢るる。 芳ばしき匂ひに八郎たまり兼ね 自分の分とし一尾喰らへり。


 俺は未だ斯んな美味いものは口にした事は一度も無いと彼はかすかに残る口辺の美味に酔ふた。後に残れる二尾の岩魚は二人の友の分としてあつた。けれども八郎は辛抱が仕切れなくなつて何時の間にかとうとう残りの分二尾とも平げて了つた。アツ了つたと思つたが後の祭りで如何とも詮術がなくなつた。

 八郎は二人の友に対して何となく済まないやうな気持を抱くのであつた。間もなく八郎は咽喉が焼きつく如うに渇いて来た、口から烈火の焔が燃へ立つてとても依然として居られなく成つたので、傍に汲んで来て置いた桶の清水をゴクリゴクリと呑み干したが、又直ぐに咽喉が渇いて来るので一杯二杯三杯四杯と飲み続けたが未だ咽喉の渇きは止まづ反て激しくなる斗りである。

 アア堪らない、死んで了ひさうだ、是は又何とした事だらうと呻き乍ら沢辺に駈け下るや否や、いきなり奔流に口をつけた。そして其儘沢の水も盡きん斗りに飲んで飲んで飲み続け、恰度正午頃から、日没の頃ほひまで、瞬間も休まづ息もつがず飲みつづけて顔を上げた時、清流に映じた自分の顔を眺めて思はずアツと倒るる斗り驚きの声を揚げた。

 嗚呼無惨なるかな、手も足も樽の如く肥り、眼の色ざし等既に此の世のものでは無かつた。折から山へ働きに行つて居た二人は帰つて来て、此始末に胆を潰す斗り驚愕して了つた。オオイ八郎八郎と二人が声を合せて呼べば、その声にハツと気付いた八郎は漸くにして顔をあげ、恐ろしい形相で二人の友をじつと眺めてからやがて口を開いた。 

 

八郎は岩魚の美味に堪へ切れず 二人の友の分まで喰らへり。魚喰ひし跡より咽喉が渇き出し  矢庭に桶の汲置水呑む。 桶の水幾許飲みても飲み足らず  清き渓流に口を入れたり。正午より夕刻までも沢の水  飲み続けたり渇ける八郎。 

渓流に写れる己れの姿見て  八郎倒れん斗りに驚く。 

八郎の姿は最早現し世の  物とも見えぬ形相凄まじ。 

手も足も樽の如くにはれ上り 二タ目と見られぬあはれ八郎。夕方に二人は小屋に立帰り  八郎の姿に魂を消したり。

 八郎は夕刻二人の友の帰つたのを見て少時無言の後やつと口を開き、お前達は帰つて来たのかと云へば二人はオイ八郎一体お前の姿は何だ。如何して斯うなつた。浅間敷い事になつたの。さあ住所へ帰らうよ、と震へ声を押し沈めて言つた時八郎は腫れあがつた目に一杯涙を浮べて、もう俺はどこへも行く事は出来ない身体になつて了つたのだ。何と云ふ因果か知らぬが魔性になつた俺は寸時も水から離れられないのだ。

 これから俺は此処に潟を造つて主になるからお前達は小屋から俺の笠を持つて家に残つて居られる親達へ此事を話して呉れろ。アア親達はどんなに歎かれるだらうと両眼に夕立の雨を流して嘆ずる声は四囲の山々に反響して又どうと谺するのであつた。かくては果じと二人は、八郎よ俺たち二人は爰で永の別れをする。八郎よさらばと名残惜し気に十和田を去つた。

 二人の立去る姿を見すましてから八郎は尚も水を飲み続ける事三十四昼夜であつたが、八郎の姿は早くも蛇身に変化し、やがて十口より流れ入る沢を堰止めて満々とした一大碧湖を造り二十余丈の大蛇となつてざんぶと斗り水中に深く沈んで了つた。

 かくして十和田湖は八郎を主として、年移り星変り数千年の星霜は過ぎた。永遠の静寂を以て眠つて居た一大碧湖の沈黙は遂に貞観の頃となつて破らるるに至つたのである。 

 

八郎は二人の友に涙もて  永き別れを告げて悲しむ。 

両親の記念と笠を友に渡し  十和田の湖の主となりけり。 八郎は三十四夜の水を呑み続けて  遂に蛇体と変化す。 

二十余丈大蛇となりて八郎は  十和田湖深く身を沈めたり。十口の流れをせきて永久の  住所十和田の湖を作れり。 

数千年沈黙の幕破れけり  貞観年中男装坊にて。

 

 貞観十三年(2)春四月、京都綾小路関白として名高い、藤原是実公は讒者の毒舌に触れ最愛の妻子を伴ひ、桜花乱れ散る京都の春を後に人づても無き陸奥地方をさして放浪の旅行を続けらるる事となつた。一行総勢三十八人は奥州路を踏破し、やがて気仙の岡に辿りついて爰に仮の舎殿を造営し、暫時の疲れを休められた。

 間もなく是実公他界せられ、その嫡子是行公の代となるや、元来公家の慣習として、何んの営業も無く、貧苦漸く迫り来りたる為、今は供人共も各自に業を求めて各地に離散してしまひ、是行公は止を得ず、奥方のかよわき脚を急がせつつ、仮の舎殿を立出で、北方の空を指して、落ち行き給ひし状は、実にあはれなる次第であつた。斯くて日を重ね、月を閲して三ノ戸郡の糖部へ着かれ、何所か適当なる住処を求めんと、彼方此方尋ね歩行かれたが、一望荒寥とした北地の事とて、人家稀薄依るべきものなく、村らしき村も見えず、困苦をなめ乍ら、やがて馬淵川の辺りまでやつて来られたが渡るべき橋さへもなく、又船も無いので、途方に暮れ乍ら夫婦は暫時河面を眺めて茫然たる斗であつた。

 かくてはならじと二人は勇気を起し川添ひに雑草を踏み分け三里斗り上りしと思ほしき頃、目前に二三十軒の人家が見えた。是行公は雀躍して、奥よ喜べ、人家が見へると慰めつつやがて霊験観音の御堂へと着かれた、そして其夜は御堂内に入りて足を休め又明日の旅路をつくづく思ひ悩みつつ、まんじりとも出来なかつたのである。 

 その翌日是行公の室へ這入つて来た別当は威儀を正して「何処となく床しき御方に見え候も、何れより御越しなるや、お構ひなくば大略の御模様お話し下され度し」と言葉もしとやかに述ぶる状は、普通の別当とは見えず、必ずや由緒ある人の裔ならんと思はれた。

 是行公は、「吾等は名もなき落人なるが、昨夜来より手厚き御世話に預り、御礼の言葉も無し。願はくは後々までも忘れぬため、苦しからずば此の霊験観音堂の由来をきかせ玉へ」と言葉を低うして訊ぬるに、彼の別当は襟を正し乍ら、「さればに候、拙者は藤原の式部と申す者にて、抑々吾祖先は藤原佐富治部卿と申す公家の由にて讒者のため都より遥々此処に落ち、柴の庵を結びこの土地を拓きて住めるなり、現在にては百姓も追々相集り斯の如く、一つの村を造りしものにて、此観音堂は村人が我祖先を観音に祀りたるものにして、近郷の産土神にて候、扨て又御身は都よりの落人の由、何故斯様なる土地へとお越し遊ばされしや」と重ね重ねの問ひに是行公は懐しげに、式部の顔を打ち眺め「あ、扨ては貴公は吾一族なりしか、吾祖先も藤原の姓、父上までは関白職なりしも、無実の罪に沈み、斯く流人となりたり。

 只今承はれば貴公も藤原と聞く、系図なきや」と問はれて式部は早速大切に蔵めてあつた家の系図を取り出し、披き見るに是行公は本家にて、式部は末家筋なれば、式部思はず後に飛び去つて言ふには、「扨ても扨ても不思議の御縁かな。是と申すも御先祖の御引合せならむ。此上は此処に御住居あらば、我等は家来同様にして、御世詁申す可し」と是より是行公と式部は兄弟の契を結び、是行公は兄となつて、名を宗善に改め給うたのである。 

 

貞観の昔関白是実公は  讒者の為に都を落ちます。 

綾小路関白として名高かりし  是実公の末路偲ばゆ。 

妻や子や伴人三十八名と  みちのく指して落ち行く関白。 桜花春の名残と乱れ散る  都を後に落ち行くあはれさ。 

みちのくの気仙の岡に辿りつき  仮の舎殿を営み住ませり。是実公間も無く世をば去り玉ひ  嫡子是行公の代となる。 営みを知らぬは公家の常として 貧苦日に日に迫り来にける。伴人も貧苦のために彼方此方と  業を求めて乱れ散りける。是行公奥方伴ない家を出て  北の方さして進みたまへる。 三ノ戸の郡糖部につきたまひ  一望百里の荒野に迷へり。 馬淵川橋なきままに渡り得ず  草村わけつつ三里余上れり。二三十戸人家の棟の見え初めて  夫婦は蘇生の喜びに泣く。是行公観音堂が目にとまり  爰に二人は一夜明かせり。

観音堂別当室に入り来り  不思議の邂逅に歓び合へり。 

別当は藤原式部その昔  祖先は関白職なりしなり。 

是行と式部は爰に兄弟の  約を結びて永く住みけり。 

是行公名を宗善と改めて  この山奥に半生を送る。 

 爰に藤原是行公の改名宗善は式部の計らいに由つて、三ノ戸郡仁賀村を安住の地と定めて何不自由なく暮してゐたが、只々心に掛るは世継の子の無い事であつた。アア子が欲しい欲しいと嘆息の言葉を聞く度に奥方は秘かに思ふやう、もう此の上は神仏に祈願を篭めて一子を授からんものと霊験堂の観音に三七二十一日の参篭を為し、願はくは妾等此の儘にして此土地に朽ち果つるとも、子の成人したる暁は再び都へ帰参して、関白職を得るやうな器量ある男子を授け給へと一心不乱に祈つて居る中、恰度二十一日の満願の夜のこと、日夜の疲労に耐へ兼ね思はず神前にうとうととまどろめば、何処ともなく偉大なる神人の姿現はれて宣たまふやう、汝の願に任せ、一子を授けむ。されどもその子は必ず弥勒の出世を願ふ可し、夢々疑ふ勿れ、我は瑞の御霊神素盞嗚尊なりとて御手に持たせ給へる金扇を奥方玉子の君に授けて忽ちその御姿は消へさせられた。

 夢よりさめたる奥方玉子の君は、夫の宗善に夢の次第を審さに告げられしが、間もなく懐胎の身となり月満ちて生れ落ちたは玉のやうな男と思ひの外女の子であつた。夫婦は且つ喜び且つ女子なりしを惜しみつつ蝶よ花よと育みつつ七歳となつた。 夫婦は男子なれば都に還りて再び藤原家を起し、関白職を継がせんとした望みは俄然外づれたれども、今の間に男装をさせ、飽くまでも男子として祖先の家名を再興させんものと、名を南祖丸と付けたのであるが、誰いふとなく女子が男装して居るのだ、それで男装坊だと称ふるやうになつたのは是非なき仕儀と言はねばならぬ。 

 然るに生者必滅会者定離のたとへにもれず、痛ましや南祖丸が七歳になつた秋、母親の玉子の君は不図した原因で病床に伏したる限り日夜病勢重る斗りで、最早生命は旦夕に迫つて来たので南祖丸を枕辺近く呼びよせて言ふ。 

「お前は神の申し子で母が一子を授からんと霊験堂へ三七日間参籠せし時、瑞の御霊神素盞嗚神より、生れたる子は弥勒の出生を願ふべしとの夢の御告げありたり。汝は此母の亡き後までも此の事斗りは忘るなよ」と苦しき息の下から物語りして遂に帰らぬ旅に赴いて了つたのである。 

仁賀村に宗善夫婦は不自由なく  安住したり式部の好意に。世継ぎの子無きを悲しみ宗善の  妻は観音堂に篭れり。 立派なる男子を生みて関白家  再興せんと日夜に祈れり。 素盞嗚の神が夢に夜現れて  子を授けんと宣らせ給へり。 瑞御霊授け給ひし貴の子は  弥勒出生を願ふ女子なる。

月満ちて生れたる子は男装させ 名も南祖丸とつけて育くむ。南祖丸七歳の時母親は  神示を南祖に告げて世を去る。 

弥勒の世来さんとして素の神は 神子をば女と生ませ玉へる。

 

 南祖丸はじめ父の宗善、式部夫婦等が涙の裡に野辺の送りをやつと済ませた後、父宗善は熟々南祖丸を見るに年は幼けれども手習ひ学問に精を出し恰も一を聞いて十を悟るの賢さ、是が真正の男子ならば成人の後京都に還り祖先の名を顕はして吾家を関白家に捻ぢ直す器量は十分であらう。

 併し乍ら生来の女子如何に骨格容貌の男子に似たりとて妻を娶り子孫を生む事不可能なり。乳児の頃より男子として養育したれば世人は之を女子と知る者なかる可し。

 如かず変生男子の願ひを立て此の儘男子として世に処せしめ、神仏に仕へしめん。誠や一子出家すれば九族天に生ずとかや。亡き妻の願望に由りて神より与へられたる子なれば家名再興の野心は、流水の如く捨去り、僧となつて吾妻の菩提を弔はしめんと決心の臍を固め、奥方の死より三日後、同郡五戸在七崎の観音別当永福寺の住僧なる徳望高き月志法印に頼みて弟子となし、その名も南僧坊と呼び修行させる事とはなつた。 

 

宗善は公家再興の念を捨て  南祖丸をば出家となしたり。 七崎の観音別当月志法印  南祖丸をば弟子とし教へし。 

 爰に力と頼みし妻を失ひ愛児南祖丸を月志法印に托した宗善は今は何をか楽しまんとて馬を数多牧し老後を慰め暮して居た。 

 然るに不可思議なる事は如何なる悍馬も宗善の厩に入れば直に悪癖が直り名馬と化るのを見て、里人は何れも之を奇とし宗善の没後には宗善の霊を祀りて一宇を建立し馬頭観音と称へ其徳を偲んで居るが、奥州南部地方の習慣として馬頭観音を蒼前(宗善)と言ひ、又宗善は絵馬を描く事を楽しみとしてゐたので後世に至るまで絵馬を御堂へ奉納する風習が残つたのである。

 そして永福寺へ弟子入をした南僧坊は日夜学問を励みその明智、非凡絶倫には月志法印も舌を捲いて感嘆するのであつた。かくて其後数年を過ぎ南僧坊は茲に十三歳の春を迎ふるに到つた。 

 円明鏡の如き清らかな念仏修行、はらはらと散る桜花の下に南僧坊は瞑想に耽つて居た。幽寂の鐘の音は止んで夕暮近き頃、瞑想よりフト我に帰つて彼方の大空を眺め、亡き母が臨終の遺言をぢつと考へ込んだ。アア我母上は枕頭に吾を招き苦しき息の下から「弥勒の出世の大願を忘るる勿れ」と言はれた。 アア弥勒-弥勒出世の大願、併し乍ら自力にてはとても叶ふべくも無い。是より吾は紀伊国熊野へ参詣して神力を祈りながら大願成就せんものと決心を固め師の坊月志法印へ熊野参詣の志望を申し出でたが、まだ幼者だからとて許されなかつた。

 南僧坊は今は是非なく或夜密かに寺門を抜け出し七崎の村を後に遥々紀伊路を指して出発してしまつた。 

宗善は妻に別れて楽しまず  遂に馬飼人となりけり。 

も宗善飼へば忽ちに  良馬となるぞ不思議なりけり。 

宗善の死後は里人宗善を  観音堂建て祀り篭めたり。 

宗善を蒼前馬頭観音と  斎き祀れば良馬生るる。 

宗善は絵馬を好みて描きたれば  後人絵馬堂建てて祈れり。

女身とは言へど骨格逞しく  男子に劣らぬ風格ありけり。 南僧坊母の遺言思ひ出し  弥勒出生の大願を立つ。 

桜花散る木蔭に座して瞑想に  耽る南祖は弥勒の世を待つ。紀の国の熊野に詣で神力を得んため師の坊に許しを乞ひたり。歳はまだ十三の坊幼若の  故もて師の坊旅行許さず。 

南僧坊決心固く夜の間に  寺門を抜けて紀州に向へり。 

 

 扨て紀伊国熊野山は本地弥陀の薬師観音にして熊野三社と言

はれ其霊験いやちこなりと伝へらるる霊場地であつて、三社の御本体は、瑞の霊(三ツの魂)の神の変名である。南僧坊は一ケ所の御堂に廿一ケ日宛三ケ所に篭もつて断食をなし、日夜三度づつ、水垢離を取つて精進潔斎し一心不乱になつて弥勒の御出世を祈るのであつた。恰度満願の夜半になつて、南僧坊は不思議の霊夢を蒙つたので、それより諸国を行脚して凡ての神仏に祈らんと熊野神社を後に第一回の諸国巡礼を思ひ立つ事となつた。 

 

南僧坊熊野三社に参詣し  三週三ケ所水垢離を取る。 

瑞御魂神の夢告を蒙りて  諸国巡礼の旅する南僧坊。 

熊野三社弥陀と薬師と観音は  三つの御魂の権現なりけり。 数十年修行を為せと皇神は  男装坊(南僧坊)に宣らせ玉へり。神勅に由つて熊野三社を立出でた男装坊は先づ高野山に登り大願成就を一心不乱に祈願し終つて山麓に来かかると、道傍の岩石に腰を下ろし休んで居た一人の山伏がつかつかと男装坊の前に進んで来た。見れば身長六尺余、柿色の法衣に太刀を帯び金剛杖をついて威勢よく言葉も高らかに、「如何に御坊修行は法師の業と見受けたり。汝男子に扮すれども吾法力を以て観ずるに全く女人なり。女人禁制の霊山を犯しながら修行などとは以ての外の不埒ならずや。必ずや仏の咎に由つて修行の功空しからん。万々一修行の功ありとせば吾前にて其法力を現すべし」と言葉を掛けられて男装坊は暫時ぎよつとしたるが、直に心を取り直し満面笑みを湛へながら、「汝吾に向つて女人なれば不埒とは何事ぞ、衆生済度の誓願に男女の区別あるべきや。吾に修行の功如何とは愚なり。

 三界の大導師釈迦牟尼如来でさへも阿羅々仙人に仕へて其の本懐を遂げ玉ひしと聞く。况んや凡俗の拙僧未だ修行中にて大悟徹底の域に達せず。御身に於ては又修行の功ありや」と謙遜しつつも反問した時、彼の山伏は鼻高々と答ふやう、

「拙者はそもそも大峰葛城の小角、吉野にては金剛蔵王、熊野権現は三所その他山々渓々にて極めし法力によつて空飛ぶ鳥も祈り落し、死したる者も生かす事自由なり。いざ汝と法力を行ひ較べん」と詰めよるにぞ、男装坊は静かに答へ、「さらば貴殿の法力を見せ給へ」「然らば御目に掛けん、驚くな」と山伏は腰に下げたる法螺の貝を取つて何やら呪文を唱ふると見えしが、忽ち炎々たる火焔を貝の尻から吹き出してその火光の四方に輝く様は実に見事であつた。男装坊は泰然自若として暫時打ち眺め居たるが、やがてニツコと微笑みながら静かに九字を切つて合掌するや忽ち猛烈なりし火焔は跡なく消え失せて了つた。

 山伏は最初の術の破れたるを悔やしがり、何を小癪な今度こそは思ひ知らせんと許り傍の小高き所へ駈け上りざま、珠数も砕けよと押しもんで一心不乱に祈れば見る見る一天俄に掻き曇りピユーピユーと凄い風は彼方の山頂より吹き下りて一団の黒雲瞬く間に拡がり雪さへ交へて物さみしい冬の景色と変つて了つた。

 其の時に異様の怪物遠近より現はれ出で笑ふもの叫ぶものの声天地に鳴り轟きさも恐ろしき光景を現出した。然れども男装坊は少しも騒ぐ色なく、「扨ても扨ても見事なる御手の内」と賞めそやしながら真言即言霊の神器を用ゆれば、今までの物凄き光景は忽ち消滅して再び元の晴天にかへつた。 

 山伏は之を見て、「恐れ入つたる御手の内、愚僧等の及ぶ所に非ず。御縁も在らば又お目に懸らん」と男装坊の法力に征服された山伏は叮嚀に会釈を交して何処ともなく立去つて了つた。 

 斯くて男装坊は高野の山を下り紀州尾由村といふ所に差し掛り嘉茂と云へる有徳の人の許に一夜の宿を求めた。所が其の夜主人が男装坊の居室を訪ねて言ふよう、

「実は私の妻が四年斗り前から不思議の病気に犯され、遠近の行者を頼みて祈祷するも一向少しの効目も無く誠に困り果ててゐる次第なれば何卒御坊の御法力を以て御祈念給はり度し」と言葉を盡して頼み込む様子に男装坊は

「してその御病気とは」と問へば「ハイ実は夜な夜な髪の中から鳥の頭が無数に出ては啼き叫び、その鳥の口へ飯を押し込めば忽ち頭髪の中へ隠れるといふ奇病です。何と云つても毎夜毎夜のことで妻は非常に窶れ果て明日をも知れない有様、何卒御見届けの上御救ひ下され度し」と涙をはらはらと流して頼むのであつた。

 男装坊は暫時小首を傾け考へて居たが、「はて奇態なる事を承はるものかな。何はともあれ拙僧及ばず乍ら其の正体を見届けし上祈念を為さん」と快よく承諾した言葉に主人は欣喜雀躍するのであつた。

 扨てその夜丑満と思しき頃になると案の如く病人の頭から数十羽の鳥の頭が出て啼き叫ぶ様は実に気味の悪い程である。

 男装坊は病人の苦しむ様子を熟視した上、「扨ても扨ても不憫の者なるかな」と座敷の中央に壇を飾つて病人を北向きに直し、高盛の食十三盛、五色の幣三十三本を切り立て清水を盥に汲んで、「足」といふ文字を書いた一寸四方の紙片を水に浮べ、さて衣の袖を結んで肩に打ちかけ珠数をさらさらと押しもんで暫く祈ると見えしが不思議なるかな今まで七転八倒の苦しみに呻吟して居た病人は忽ち元気付き頭の鳥は一羽も残らず消え失せて了つた。

 「最早大丈夫明晩からは何事も無かるべし」と言へば主人を始め並居る一統の人々は非常に喜んで礼を述べ勧めらるるままに一両日足を停むることとはなつた。 果してその翌晩からは何事もなくなつたので男装坊は止むる家人に、「急ぎの旅なれば」と別れを告ぐるや主人は「名残惜しき事ながら最早是非もなし、些少ながら」とて数々の進物を贈らうとしたが、「拙僧は身に深き願望あつて、諸国を廻るもの一切施し物は受け難し。去り乍ら折角の御厚志を無にするも何んとやら、又一つには病人より離れた鳥どもは此のままにして置いてはさぞや迷ひ居るならんも心許なし、今一つの願ひあり、是より東に当つて一里斗りの所にある竹林の中へ一つの御堂を建立し、額に鳥林寺と銘を打ち給はらば幸なり」と言ひ残してから家人に再び別れを告げて道を急いだ。それより男装坊は二名の嶋へ渡り数々の奇瑞を現はし九州に渡つて筑紫の国を普く廻り所々にて病人を救ひ或は御堂を建立する事数知れず再び本土に帰り熊野に詣で三七日間の祈願を篭め第二回目の諸国行脚に出た。 

 

男装坊熊野を後に紀伊の国  高野の山に詣でてぞ行く。 

高野山下れば麓の道の傍に  山伏ありていどみ懸れり。

男装坊山伏僧の妖術を  残らず破れば山伏謝罪す。 

高野山あとに尾由の村に入り  嘉茂のやかたに露の宿りす。嘉茂の妻奇病を救ひ寺を建て  急ぎ二名の嶋に渡れり。 二名嶋筑紫の嶋を経巡りて  奇蹟現はし衆生を救へり。 

男装坊再び熊野に引き返し  三七日の荒行を為す。 

男装坊爰より二度目の国々の  行脚の旅に立ち出でにけり。 男装坊は弥勒出世大願の為に国々里々津々浦々遣る隈なく修行しつつ十三才の頃より七十六歳に至るまで前後を通じて殆んど六十四年間休みなく歩き続けたがこの間熊野三社に額きし事三十二回に及んだ。そして恰度三十三回目の熊野詣での時三七日社前に通夜した満願の夜思はずとろとろと社前に微睡した。と思ふと夢とも現つとも判らず神素盞嗚神威容厳然たる三柱の神を従へ現はれ給ひ神々しいその中の一柱神が「如何に男装坊、汝母に孝信として弥勒の出世を願ふ事不便なり。汝は此の草鞋を穿き此の杖の向くままに山々峰々を凡て巡るべし。此の草鞋の断れたる所を汝の住家と思ひそこにて弥勒三会の神人が出世を待つべし」と言ひ残し神姿は忽ち掻き消す如くに隠れ給ふた。

 男装坊は夢より醒めて自分の枕頭を見れば鉄で造れる草鞋と荊の杖が一本置かれてあつた。男装坊は蘇生歓喜の涙にむせび乍ら、「アア有難し有難し我が大願も成就せり」と百度千度社前に額きて感謝を為し、「さらば熊野大神の神命に従ひ国々の山々峰々を跋渉せん」と熊野三社を始め日本全国の高山秀嶽殆んど足跡を印せざる所無きまでに到つたのである。 

 

男装坊前後六十四年間  休まず日本全土を巡りぬ。 

熊野社に三十三回参詣し  鉄の草鞋と杖を貰へり。 

男装坊弥勒出世の大願の  成就したりと嬉し涙す。 

瑞御霊三柱神と現はれて  男装坊の先途を示さる。 

 

  それより男装坊は日本全洲の霊山霊地と名のつく箇所は残らず巡錫し名山巨刹に足を止めて道法礼節を説き、各地の雲児水弟の草庵を訪ひて法を教へ且つ研究し、時々は病に悩めるを救ひ不善者に改過遷善の道を授けて功徳を積み累ね乍ら北方の天を望んで行脚の旅を十幾年間続けたる為、鬚髯に霜を交ゆる年配となり、幾十年振りにて故郷の永福寺に帰つてみれば、悲しきかも恩師も両親も既に已に他界せし後にて、只徒らに墓石に秋風が咽んでゐるのみであつた。 

  男装坊は今更の如くに諸行無常を感じ己が不孝を鳴謝し、懇に菩提を弔ひ又もや熊野大神の御誓言もあるところより何時迄も故郷に脚を停むる訳にもゆかなかつた。 

 

日の本のあらゆる霊山霊場に  巡錫なして道を説きつつ。 雲水の徒等に法の道  伝へ伝へて諸国に行脚す。 

いたづきに悩める数多の人々を  救ひつ巡りし男装坊かな。数十年行脚終りてふる里に 帰れば恩師も父母も坐まさず。 師の坊やたらちねの墓にしくしくと  詣て見れば咽ぶ秋風。世の中の諸行無常を今更に  感じて師父の菩提弔ふ。 

三熊野の神の誓ひを果さむと  男装坊は故郷を立つ。 

 

  陸奥の国人たちより大蛇が棲めりと怖れられ人の子一人近寄りしことの無き赤倉山、言分山、八甲田山などへ登つて悪魔を言向和さむと、又もやその年の晩秋風吹き荒ぶ山野を行脚の旅に立ち出づることとした。 

  降りに降りしく紅葉の雨を菅の小笠に受け、積る山路の落葉を鉄の草鞋に掻き分け悲しげに鳴く鹿の声を遠近の山の尾の上や渓間に聴きつつ西へ西へと道もなき嶮山を岩根木根踏みさくみつつ深山に別け入り、或る夜のこと岩窟内に一夜の露の宿りせんものと岩間を漏れくる燈火を便りに荊棘をはつはつ分けて辿りつき見ればコハそも如何に怪しとも怪し花に啌〔嘘〕つく妙齢の美人が現れて、男装坊の訪ひくることを予期してゐたかの様に満面に笑みを湛えて座に請じ入れた。 

 「あな嬉しや懐しや、御坊はその名を男装坊とは申さざるや。妾は過ぐる年観相術に妙を得たる行者の言によりて、妾が前生にて愛くしみ愛しまれたる背の君たりし人は現代にも再生し男装坊と名のり、諸国行脚の末今年の今宵この山中に来たらるべきを聴き知り、幾歳の前より此の附近の山中に入りて貴坊に再会すべき今日の佳き日を指折り数へひたすらに待ち申す者なり。願はくは妾の願ひを容れて今生にて妹背の契りを結び、我身の背の君と成らせ給へ」と言ふにぞ、男装坊は大に驚き、「我身は三熊野の大神の御霊示に由つて末に主となるべき霊地を探査して難行苦業の旅を続くるもの故、如何に御身の願ひなればとて、一身の安逸を貪る為に大神への誓ひを破る訳にはゆかぬ。自分は実際女身の男装者である」と、懇々説示して心底より諦めさせようと努力はしたが、恋の闇路に迷つた女性は到底素直に聴き入るべき気配もなく、首を左右に振り涙をはらはらと流し乍ら「御坊よ譬へ女身なりとて出家なりとて同じく人間と生れ給ひし上は血潮の体内に流れざる理由なし。

 よしやよし三熊野の大神への誓ひはあるとは言へ左様なる味気なき『枯木倚寒巌三冬無暖気』(3)的な生涯を送られては人間として現世に生れたる楽しみは何れに有りや。妾が庵は斯の如き見るもいぶせき岩屋なれど、前生にありし妹背の深き契りを今生に蘇へらせて最も愛しき君と生活を為すならば、たとへ木枯すさぶ晩秋の空も雪降り積もる深山の奥の隠れ家も我家のみは春風駘蕩として吹き来たり、暖気室内に充ち満ちて憂き世の移り変りも他所に我が家のみは永久に春なるべきに。この憐むべき女性の至誠が木石ならぬ肉身を持つ御坊の胸には透徹せざるか。愛しの御坊よ、その神への誓ひとやらを放擲して妾の主人となり此の岩屋に永久に留まり給へ」と衣の袖にまつはり付く様は殆んど仏弟子阿難尊者に恋せし旃陀羅女の思ひも斯やとばかり嬌態を造り春怨綿々として泣き口説くのである。 男装坊には夢にも知らぬ今の意外の出来事に当惑し、最初の間は手を拱いて黙然たりしが、我が膝に泣き崩れ荒波立たせて悲しみなげく女性のしほらしき艶容を見ては、人性を持ちて生れ出でたる男装坊、たとへ自分は女体とは謂へ黙殺することは出来ない。

  殊に愛の神仁の仏の化身なる男装坊は人を憐む情の人一倍深い身にとつては如何とも之をすることが出来ない。過去数十年間の己が修行を破る悪魔として気強く五臓の奥の間に押込めて置いた愛の戒律の一念が朝日にあたる露の如くに解け初めて、遂には女性の情にほだされ大神への誓ひを破らんとした一利那、忽ち脳裏に電光の如くに閃めき渡つたのは今日迄片時も忘れられなかつた三熊野大神が御霊示の時の光景の荘厳さであつた。そこで男装坊は此処にこの儘夜の明くるを待たば森羅万象を焼き盡さねば止まぬ底の女性の熱情にほだされ永年の望み、固くなりし信念も溶かされて遂には大神への誓ひを破り大罪を重ぬることになつて了ふ。

  女性には気の毒ではあるが一つ心を鬼とし蛇と為して逃げ出すより他に途も方法もなしと固く握り占めてゐる美女の手から法衣の袖を振り離し、泣き叫びつつ跡追つかけ来たる可憐な女性の声を後に一目散に深き闇の山中へ生命からがら逃げ込んで了ひやつと一息をつくのであつた。

  それより又もや幾日幾夜を重ねて上へ上へと登り詰め、ある山の頂に登りて見れば意外にもかかる深山の中にあるべしとも思はれぬ宏大なる湖水が目の前に展開してゐた。男装坊は驚き且つ喜び湖面や四囲の山並の美しい風光に見惚れてゐると、不思議なるかな足に穿ちたる鉄の草鞋の緒がふつつりと切れた。次に手に持つた錫杖が忽ち三段に折れて見る見る木の葉の如く天に飛び上がり大湖の水面に落ちて了つた。

  男装坊は思ふやう、 扨ては幾十年の間夢寐にも忘れざりし吾が成仏の地、永住の棲家とは此処のことであつたか。かかる風光明媚なる大湖が吾が棲家とは実に有難や辱けなやと天を拝し地を拝し八百万の神々を拝脆し、それよりすぐさま湖畔に降りて之を一周し吾が意に満てる休屋附近の浜辺に地を相し、笈をおろして旅装を解き幾十年未だ嘗て味ははなかつたところの暢々した気分となり安堵の胸を撫でおろすのであつた。 

 

大蛇すむ八甲田山その外の  深山高峰探る男装坊かな。 

雨にそぼち寒風に吹かれて男装坊は修行のために又行脚なす。

くろかねの草鞋うがちて山川を  跋渉修行の男装坊かな。 深山の岩間の蔭の灯影見て 訪へば不思議や美女一人棲める。男装坊山の美人に恋されて  神慮を恐れ夜暗に逃げ出す。 熱烈な美人の恋を跳ねつけて  又山に逃げたり男装坊師は。高山の尾の上に立ちて十和田湖の  水鏡見て驚きし男装坊。

十和田湖の畔に鉄の草鞋はぷつときれ 錫杖三段に折れて散りゆく。 

三段に折れし錫杖十和田湖の  水面さして落ち沈みたり。 十和田湖は永久の棲家と男装坊  思ひて心安らかになりぬ。

 

  それより男装坊は湖畔に立てる巨巌今篭森の上に登りて七日七夜の間不眠不食して座禅の行を修し一心不乱に天地神明に祈願を凝らし終るや湖水に入定して十和田湖の主となるべく決心し御占場の湖辺に至り岸辺の巌上に佇立して又もや神明に祈願した。時恰も十五夜の望月団々皎々たる明月は東天に昇りて湖上に月影を浮べ大空一片の雲もなく微風さへ起らず水面は凍りつきたる如く静寂であつた。

 男装坊は仰いでは天空に冴ゆる月を眺め、俯しては湖上の月を眺め天地自然の美に見惚れ居ること稍暫し、やがて入定の時刻も近づいて来た。

  瞑目合掌して最後の祈願を捧げ今や湖水に入定せんとする時、今迄静寂にして鏡の如く澄み切りし湖面俄に荒浪立ち起り円満具足の月輪の影千々に砕けて四辺に銀蛇金蛇の乱れ泳ぐかと思はるる折もあれ不思議なるかもその波紋は次第次第に大きくなり遂には中の湖の辺より鼎の涌く如くに洶涌し其の中より猛然奮然として躍り出でたるはこの湖の主として久しき以前より湖中に棲んで居た八郎の化身の竜神である。

 頭上には巨大なる二本の角を生じ口は耳まで裂け、白刃の牙をむき出し眼は鏡の如く爛々と輝き幾十丈とも計り知られぬ長躯の中央をば大なる竜巻の天に冲したる如く湖上に起し、男装坊をハツタと睨み付け

 「ヤヨ男装坊克く聞け、この湖には八郎と云ふ先住の主守りあるを知らぬか、我身の位置を奪はんと狙ふ不届者汝身命の安全を願はば一刻も早く此の場を退却せよ」と天地も震動する大音声をあげて叱z早k叱咤〕し牙をかみ鳴らし爪をむき出し、只一呑みと斗り押し寄せ来る。

 男装坊は吾は戦ひを好むものにあらず、三熊野大神の御啓示に由つて今日より吾は此の湖の主となるべし。神意に逆はず穏かに吾に譲渡し勇ぎよく此の地を去れ、と説き勧むれど怒りに燃えたる八郎の竜神如何で耳を籍〔藉〕すべき、十和田湖の主八郎の猛勇無比、精悍無双なるを知らざるか、この痩せ坊主奴気の毒なれども我が牙を以て汝が頭を噛み砕き、此の鋭き爪にて汝の五体を引き裂かん。覚悟せよと怒鳴りながら飛びかかる。  

 男装坊も今は是非なく法術を以て之に対し、互に秘術の限りを盡し戦へども相互の力譲らず不眠不休にて相戦ふこと七日七夜に及び何時勝負の果つべくも思はれぬ状況であつた。 

 

男装坊月の清さに憧憬て  湖面にしばし佇み合掌す。 

大神の霊示の棲所は此の湖と 入定せんため湖に入らんとす。此の湖の主なる八之太郎蛇は  浪荒立てて怒り出したる。 男装坊は吾が永住の棲家なり  早く去れよと八蛇に迫る。 八之太郎竜神怒り角立てて  男装坊に噛み付き迫る。

男装坊ひるまずあらゆる法術を  盡して大蛇と挑み戦ふ。 天震ひ地は動ぎつつ七日七夜  竜虎の争ひ果つる時なし。     

  爰に於て男装坊は止むを得ず天上に坐す天の川原の棚機姫の霊力を乞ひ幾百千発の流星弾を貰ひ受け之を爆弾となして敵に投げ付け、或は雷神を味方に引き入れ天地も破るる斗りの雷鳴を起さしめ大風を吹かせ豪雨を降らせ、幾千万本の稲妻を槍となしたる獅子奮迅の勢にて挑み戦へば、八郎もとても叶はじとや思ひけむ、暫しの間手に印を結び呪文を唱へ居たりしが、忽ち湖中に沈み再び湖底から浮び出たるその姿は恐ろしくも一躯にして八頭十六腕の蛇体と変り、八頭の口を八方に開き水晶の如く光る牙を噛み鳴らし白刃の如く研ぎ磨いた十六本の腕の爪をば十六方に伸ばし風車の如く振り廻しつつ敵対奮戦するために又も其の力相伯仲して譲らず、再び七日七夜不眠不休の活躍、何時勝負の決すべしとも予算がつかぬ状況である。 

   男装坊思ふに我が為めに斯くの如く永く天地を騒がし奉るは天地神明に対して誠に恐懼に堪へぬ。今となつては止むを得ず神仏の力に縋るより他に方法なしと笈の中より神書一巻、神文一巻を取り出し之を恭しく頭上に高く掲げて神旗となし朝風に靡かせ八郎の大蛇に打ち向へば、嗚呼不可思議なるかな神書神文の一字一字は残らず弓箭となりて抜け出し、激風に飛ぶ雨や霰の如く八郎に向つて飛びゆき眼口鼻耳と云はず全身五体寸隙の残るところなく刺つて深傷を負はせた。 

  八郎は勇気と胆力とにかけては天下無双の剛者なれども惜しいことには無学なりしため神書神文の前に立つては男装坊に対抗して弁疏すべき方法を知らず、信仰力を欠いでゐたのでさすがに剛勇を以て永年間この附近の神々や鬼仙等を畏服せしめ居たりし八郎の竜神も、此の重傷に弱り果て今は再び男装坊に向つて抵抗する気力もなく、腹を空に現はして湖上に長躯を横たへ苦しげに呻吟する斗りとなつた。その時全身幾万の瘡口より鮮血雨の如くに流れて湖水に注ぎ忽ちのうちに血の海たらしめたのであつた。

  爰に八郎は男装坊に破れ千秋の怨みをのんで十和田湖を逃げ出し小国ケ岳、来満山を経て更に川下へ落ちのび、三戸郡下に入つてこの辺一帯の盆地を沼となし十和田湖に劣らぬ己が棲家を造らむとせしが、この地方は男装坊の生立ちし為め男装坊にとつて縁故の深き土地なるがため、此の附近の神々は一同協定結合して八郎を極力排斥することとなり、四方より巨石を投じて攻撃されたるため、八郎は居たたまらずして又もやここを逃げ去り、山々を越えて鹿角郡に入り郡下一円を大湖と化し、十和田湖よりも大きなる湖水を造り徐ろに男装坊に対し復讐の時機を待たむと企てしも、附近の神々や鬼仙等は十和田湖に於ける男装坊と八郎の戦ひを観望して男装坊の神の法力、遙に八郎の怪力を凌ぐに余ることを知つてゐるため、今は八郎の威令も前の如くには行はれず此の附近の守護神なる毛馬内の月山神社、荒沢八幡宮、万屋地蔵その他数千の神社の神々は大湯に集まりこれに古川錦木の機織姫まで参加の結果、大会議を開き男装坊の味方となり、八郎を排撃することと決し、月山の頂上に登りて大石を瓦礫として投げ付けたるため、八郎は居たたまらず十二所扇田の流れを下りて寒風山の蔭に一湖を造り、此処に永住の地を見出したが八郎の名に因んで後世の人之を呼んで八郎潟と称ふるに至れり。 かくて男装坊は三熊野三神別けて神素盞嗚尊の神示によりて弥勒の出現を待ちつつありしが、天運茲に循環して昭和三年の秋、四山の紅葉今や錦を織らむとする頃神素盞嗚尊の神示によりて爰に瑞の魂十和田湖畔に来り、弥勒出現の神示を宣りしより男装坊は欣喜雀躍、風雨雷鳴地震を一度に起して微証〔徴証〕を示しつつその英霊は天に昇りたり。それより再び現界人の腹を籍〔藉〕りて生れ男性となりて弥勒神政の神業に奉仕することとはなりぬ。 

 吁神界の経綸の深遠にして宏大なる到底人心小智の窺知し得る限りにあらず。畏しとも畏き次第にこそ。惟神霊幸倍坐世。 附言、男装坊現世に再生し、弥勒の神業を継承して常磐に堅磐に神代を樹立するの経綸や出生の経緯に就いてはこと神秘に属し、未だ発表を許されざるものあるを遺憾とするものであります。(完)
(1)「瀟湘八景」(しょうしょうはっけい)…中国湖南省の洞庭湖(どうていこ)付近にある八ケ所の景勝地。

(2)「貞観十三年」…西暦871年。清和天皇十九年。

(3)「枯木倚寒巌三冬無暖気」…「枯木(こぼく)寒巌(かんがん)に倚(よ)って三冬(さんとう)暖気(だんき)無し」と読む。「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という禅の公案に出てくる一文。冷淡で近づきにくい態度を指す「枯木寒巌(こぼくかんがん)」という熟語で知られる。

十和田湖の神秘